めんたま生活録

特に書くことも無い普通の学生日記。

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へこんでみたりもするわけですよ。
いつものことかもしれないけど、それでも何度だって繰り返すものなんだ。
こーいういつまでたっても学べない自分は嫌いだ。
でもここにいる事実は否定しようがないから、余計に嫌になるのかもしれない。
どうしたことかね。


ちょっと沈んでます。
ぼやきたい気分なので以下独り言。



自分が無性に嫌になる瞬間だと思う。
いくら自分で意識しようと努力したとこで、
自分が望む理想像になんて届くわけが無い。
むしろそれは届かないものであるからこその理想なのではないかとすら思えてくる。
理想とはなんなのか?それは単なる虚像でしかないのだろう。
それでも理想を追い求めるこの様は愚かしく救いがない。
判っていても繰り返すなんて無能なだけ。

いや、問題なのはそうじゃない。
頭で理解していながら努力すらしようとしないのがいけないんだ。
自堕落な自分なんて、なんて救いの無いことか。
そんなで理想を得ようなんてこと自体てんで間違っているとしか言いようがなく、
その意識を持とうとすらしないことに失望する。
何故しないのか?そんな問いかけに答えられる訳が無い。
面倒臭い?さあどうだろう。自分でもよくわからない。
やらなければいけないことは分かっている。
だけど頭で理解していても行動に移さなければそれはあくまで妄想なのだ。
ただひとりの脳内で蠢く、どうしようもない救えなくて笑えない妄想。
さっさと壊れてしまえばいいのだ、そんな虚像なんて。

しかし何もせぬままに壊れてしまうことなどないのだろう。
この身体が自分のものである限り、自分の意識が根底から
変わることの無い限り、けして何も変わりはしない。
救えない笑えない恒常がただ一直線に伸び続けているだけ。
いつまでも歩き続けて、そのうち転んで馬鹿みたいに笑って。
いっそこんな自分を哀れんで同情でもしてやれば良いのかもしれないが、
それではいけないことも頭では理解している。
変えなくてはならない、変化を作らなければならない。
ああ、いったいどうやって?

意識とはどうやって変えればいい?意志とは一体なんなのか?
すべて根底から覆されて、がらりと変わってしまえばどんなに楽かと思う。
そんなの夢物語にしか過ぎなくて、机上の論理にすらなりえない。
自分に忠実に、それこそ気ままに振るえてしまえれば良いのにとも思う。
それが出来ない自分が余計に無様に感じて仕方が無い。
無知でありたいと願う一方でそれが出来ない自分がもどかしい。
無知であればこんな風に感じずに済んだのだろうか。
しかしそんな後悔もまた意味の無いものであり、結局あるのは「今」という事実だけ。
変えようと自分が努力しない限り、何も変わらないただの恒常。

では努力すれば良いといのにしないのはただの自分の弱さにしか過ぎない。
遂行し得ない馬鹿馬鹿しい自分の弱さでしかないのだ。
強くありたい、変えたいと願うだけで、結局何も出来ない。
何かを変えることが怖い。恒常を崩すのが怖い。
何も変わらなければ良いのにとどこかで願っているのかもしれない。
だから努力しないのか、何もせずにただ願うだけであるのか。
それはただの言い訳でしかないのだろう。
私の言葉はただの言い訳。言い訳にしか過ぎない。
そこに意味なんて無い。ただの言葉の羅列。

意味のある言葉を言おうじゃないか。
では意味のある言葉とは何なのか?
一体どのような定義をもってしてそれを意味の有ると解釈すれば良いのか
得てしてその定規は誰もが持ち得ず、また誰もが持ちしものであるといえるだろう。
では万人に通ずる定規とはないのだろうかとも思うが、
恐らくそんなものは無いのではないかと思う。
それは人間が感情を持ち考え動く動物だからで、
皆が自我すなわちエゴで動く以上は尺度もまた
エゴの度合いにて変わってくるからだ。
では一体何を持って意味を求めれば良いのだろうか。
この世界に、物事に意味とはそもそも存在しているのだろうか。

意味などどこにもないのかもしれない。
それでも求めずにはいられないのは、存在意義を確かめたいからなのか。
ここに確かにいりるという証拠はどこにもないのだ。
もしこれが夢であるなら、もしかしたら自分もまたその夢の一部でしかないのかもしれない。
私としてはそれが一番ベストな回答だが、それが事実であるかを
確かめる術などどこにも無い以上、結局その証拠などどこにも存在していないのである。
だから存在意義を求めるというのか。では何故存在する必要があるのか?
それはアイデンティティの確立であるのかもしれないが、
そんなもの存在していない以上は必要のないものだ。
必ずしもここに存在する必要なんて無い以上、
そこまでして存在意義を確かめる必要なんてあるのだろうか?

出来れば存在していなければと思う。
そしてそれが本当は思ってはいけないことであることも十分承知しているつもりだ。
分かっているなら口に出していいとは言わない。
しかしそれでも出さずにはいられない時というのがあることもまた事実だろう。
結局は逃げたいだけなのである。
逃げ道が欲しいと、いつも望んでいる。

自分を変えることなんて出来ない。
何故なら私は結局誰かを心から信用することも出来ないし、
どこかで人との接触を恐れ続けているからに過ぎない。
また誰かに裏切られると、びくびくしながら笑顔振りまいて、
周りにいい顔しているだけの存在でしかないからである。
そんな自分を否定はしない。是認できるのは自分しかいないのだから、
敢えて私は是認しようと思う。しかし好きだとは思えない。
それは万人に共通する感情だといえるかもしれない。
人間は好きだが嫌いだ。常に回り続ける矛盾も、
私を構成しうる一つのパーツにしか過ぎない。
私はそれを愛することも拒むことも出来ない。

こんなことを考える自体馬鹿げている。
なんのために考えるのか?意味などないに違いない。
これほど以上に無意味な思考などない。
前進するでもなく後退するでもなく何を望むでもない。
望んで叶うならいくらでも望んでらろう。そんな夢物語を信じながら。
だけど結局望むだけで何も出来ない自分はただの弱者で、
心の弱さを一人自分であざ笑うただのロクデナシでしかないことは確かだ。


今この瞬間が、酷く私を憂鬱な気分にさせる。
どうしようもない自分が嫌になる瞬間。
ああ、なんてこの、意味の無いこと。
本当に、言葉にする以上に馬鹿馬鹿しい。

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